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耳の悪いお祖父ちゃんは僕が家に入る前からなにを見ているか分かる音量でNHKの動物のドキュメンタリーを見ていて、そしていつもそれを見ながら涙を流していた。

そして、アフリカだかアメリカだかそんな遠いどこかの動物が愛し合ったり頑張ったり死んだりしたところであんたにはなんの関係もないじゃないか、とそう僕はいつも言ってやりたいと思っていた。お前が涙を流すべきところはもっと他にたくさんあるんじゃないか、と言ってやりたかった。お祖母ちゃんの死とかお母さんの不幸とか、おまえの愚かさとか。

僕はだいたいそんなとき炬燵にうつ伏してマンガや雑誌や本を読んだ。どれも面白おかしく読んだ。それは『ビックコミックスピリッツ』だったり『メンズハイファッション』だったり『二十世紀旗手』だったりしたけれど、その状況で何かしらを読むということ、そのことそのものが一つの意志表示でもあって「俺はおまえの悲しみには参加しないし、俺は俺の感情によってしか感情を動かすつもりなんてない」とそう背中で言っているつもりだった。

あの頃、読む物がなんでもかんでも面白かったような気がするのはどうしてだろう。それは僕が比較的まともに本とか雑誌を読み始めた時期があの頃だったからなのか、それともある何かのせいにして別の何かをするという逃避行動がまだ生き生きと心理的価値を持っていたからだったのか。

それが「初めての愉しみ」に依っていた場合:

初めて女の子と手をつないだ時の緊張と達成感は、その女の子へのわたしたちの愛の深さとは独立に最上だ。それは原型となって繰り返し人生に現れ時にはそれを凌ぐような出会いもあると思えるけれど、どこまでいってもいわばそれは原型に対する模型であって、繋いだ手の数によって、また愛の深さや自分の精神の変化によって、より精度は上がるかもしれないけれどもあの震えを超えるということは絶対にない。何かをし始めた時の好奇心と躍動とは、全てそういったものなのだ。あなたにとっての価値が一定であっても(もしくは増えてさえいても)、その価値の見た目はつねに時間によって掘り崩されていく。わたしたちにとっては「新しさ」はいつも「身近さ」以上の価値を持ってしまう、持続というものがまるで停止しているように見えるように。

だからわたしたちは、むしろその初めの愛の震えと競わないような部分で愛を昂ぶらせる技を磨くようになるし、それはたしかに正しい愛し方なのだ。「あのようでないこれ」、「このようでないそれ」、そういった別の場所に自分を置くこと、もしくは愛への視点を変えることによって彼は一人の女をずっと愛し続けるようになるだろう。永遠に愛すなら、その永遠の分だけ愛の再構成が必要なのだ。長く愛した女と手を繋ぐ時の、自分専用の棺に収まるような、完結して満たされた感情は、初めを追放されたわたしたちにとって、半ば自動化された愛の構造転換である。

それとも「逃避の愉しみ」に依っていた場合:

感情の力学は世界の人間全てが相互にシーソーに乗り合っているように可視化できる。

woddy

昨日は仕事が休みだった。

僕は昼ごろに起きて洗濯機を回し、その時間に簡単に食事を作り、それを食べて、洗い物と簡単な掃除を済ませて部屋を出た。

それがたぶん夕方の三時過ぎだったと思う。雲が雲としては確固として存在しないような、全く灰色で均一な空は、僕のスウェードの靴と同じようにあまり手入れされていない敵意のある風景として不穏な感じを与えた。

なぜ散歩するのに革靴を履いたのかもわからなかったけれど、そもそも散歩に適した靴なんて僕の散歩に吐きたい靴ではないのだから仕方がないと思った。

歩きながら近場のギャラリーの展示を見つくろっていて、急に息が止まった。

ほぼ一年前に別れた彼女の企画展がそう遠くない場所で行われているということだった。

別れた時の泥沼の言い合い以上に深刻だったのは、そのあと数か月は続いただろうか、奇妙に安定した肉体関係のほうで、それもまた結局は僕の方が完全に非も無いような異常者として見捨てられる形で終局した。単純に言えば、僕はその頃少なくはない女性たちと肉体関係を持っていて、その痕跡をあからさまに残したまま次の女性を相手するという程度には頭がおかしくなっていた時期だった。

その頃を思い返すと、取り返しようのない間違いを喜んで繰り返すことができるということは非常に心地良いものだったし、相手を傷つけることで自分を罰しているような、そんな時期だった。そういうことができると思う。

ありきたりにファミリーレストランで罵倒された末、彼女が飲まないままにしていた水が僕の上半身全体をみじめに濡らし尽くすまで、応えられない幸福感に僕は囚われていた。あまりにも映像的すぎるその場面は、救いようもないくらい既視感に溢れ、その当時の僕の歪んだ自尊心を柔らかく昂起させた。

彼女のみじめさは僕とは違う種類のもので、僕はそれはそれで非常に居たたまれなく感じたが、それについてはあくまで彼女の自由なみじめさであって、僕がとやかく言うことではなかった。僕はただ彼女がその後泣きながら掛けてきた電話に何の肯定的な返答もせずにいるだけでよかった。今でもこれは思うけれど、その選択は一つの間違いもなかったと断言できる。その時の彼女を食い物に出来るほどには僕が現実的ではなかったからというのがその理由だ。そこに僕から彼女への何らかの愛情があったのかどうかはもはや問題ではない。ただいやに夜の暗さが濃かったことだけが記憶の芯に残っているだけだ。

きっとあれは三月で、冬の最後のやさしさだったのだと思う。言うまでもなくその季節自体に感情などないにせよ。

安心されたら安心しない

安心していけないのは安心されたくないあなたの気持ちのため

安心されたくないというのは安心できないけれど

安心できないことでわたしは安心

安心されるために安心することをしない

安心することをしないことで安心されることに安心して

安心して安心していないあなたには安心しないことに安心しないでほしいと思う

つねに安心しかねないままどこか安心できないように安心しきらないで

あなたの気持ちに安心しているから安心して安心させないでおく

その安心は安心できるのかもしれないけれど、それ自体は依然として安心ではないし

安心できないことはそもそも安心できない

そしてわたしはそれで安心して安心できる

・・・

・・・

したがって

わたしたちの寄る辺なさは噛み合わない

男が船なら、女は重力であるか、浮力で、

女が車なら男は真空。

動きを内蔵しつつともに相対的には何も起こらず

一方は可能性に対して拮抗しておりまた他方が関係において停止しているよう

分かりあいつつして

誤解のない二階の寄る辺なさ。

床の照り返しで何も見えないくらいの

強くやわらかな光が君に射して

君は影。

思い出すこともできないような過去の君が

僕の持たない記憶の、けれど僕に誤って思い出されるような君が

今のその格好で現れて、

シルエットだけで愛しく僕に正装をせがむ。

突然、

晴れ渡った空は私の目の前で

大きく

それは大きくあらわれて

砂浜から海へと、また海から空へと

その展開すらあからさまに

あけすけに代引きの宅配物のように

そのまま

ドスン

あらわれて、おいてけぼりに

なって。

立ちつくしたのは私で、

塵のすべて

すべて塵でなく塵のすべてのほうに

塵のすべてだ

燃える終わりでなく失敗の刻端

収束するのはあなたの甘い予測であれ

ひろがりはひろがる、ひろがっている

塵のすべては均質だろう、おおかた

おおかたはてんでばらばら、ばあらばら

任意のマスで切り取って重ね合わせよ

そのセンスに生きる目的を与え求めよ

誤差を捨てて強引な近似

神話の作法

「そうそう、そういえばね」と続けよ

ちょうどいい尺度、人間のサイズ

枯れ葉の落ちる意志は人間じみて

恋の教科書は改訂の余地なし

地球規模で

奇跡

同時に起きても神話は神話である

あくまで

確率的直観を鋭くする、断面には柔らかい粉ふいていてイメージに耳をすます

ごちそうさまですは皆言うか

よりよい語彙を与えよ

ありきたりであることが驚くべき語彙を

一通りの毎日から鳥の死体が見えるところへ

UFOが巣食う森へ、一つの語り口にある語尾のようなものを探しに行け

さあさあ

チャーリーは女の子が好きといったような

 

ジッパーの音響かせてより小さくする

あの気まずさに気の効いたひとことをどうぞ

あなたではない別のあなたに

語る言葉がないこと

とても不思議ではある

夕方男が叫ぶとすれば

はじめは口を何かに当てがったようなくぐもった声で

その次に明瞭な音で

そして徐々に自分を失った沈黙で

叫んだ男は目覚めたばかりで、同時に明晰さから離れていっている

男の部屋と男の視界は同じく紫のようなオレンジのような色調に覆われており

目を閉じた時の閃光は男にしか感じられない

感情を理解する余地が夢の中にしかないのは不幸ではあれ必ずしも最悪というわけではない

 

繁華街の雑踏にあるとき、ひとは一番の自由を手に入れる

狭くて急な階段が――それが下りてゆくものであれ登っていくものであれ――ひとに与えれており、その先には恐らくレコード屋かバーかもしくは、いやとにかくギリギリのところで無音でないような何らかの場所が求められている

物を考えるためには話されうる余地のあることが必要であり、かつまた何も話されてはならない

他人の介在する自問自答だけが安らかさを育むのだし、何を措いても理解が問題から遠ざかる唯一の方法である場合にはなおさら

 

音楽が何も語らないかたかだか一つのことをしか語らないのに比べて写真がグロテスクなのはそれが全てを語るからだ

ブランコに乗った女がそこにいて、そしてそこにはおらず

前方か後方かに運動しているようにして静止している

そこには愛があり、愛がない

写真が関係の終わりにしか撮られまた顧みられないように比喩は痕跡を上塗りするようにしか働かない

そんな時間がどれほど続くのかと言えばそれは永遠に続くし一瞬もかからない

 

金縛りに遭って恐怖に抱きすくめられたことがあなたの欲望の代理であるとして、そこにあるのはもっとも接近したところで覚醒した恐ろしさの影の輪郭である

いたるところに全ての近似があり、全てでないものはわたしにとっても全てでないのは言うまでもない

 

じゃっかんの時が経てば

陽は登るか落ちるかして有名なものが無名になり、無名なものに名が授けられる

食べられるあてのない二人分の食事を男が拵えている時

女は食事時ですらなく、その中間にわたしがいることができるにしてもあなたがどこにいるかは知られない

 

男が夕方叫んだことは物理的に女に知られるにせよ、そこで交わされたものは延滞されたレンタルDVDを返却ボックスに押し込んだ結果のように元々払われてしかるべきだった清算である――未来を過去にする

 

あなたはどこにいるのかと言えばひとまずは女とわたしの中間にいるということだけが可能である

また、向きは別にしても同様男の針路が沿っているのがあなたであり

結論わたしと女が底辺をなしあなたと男が高さをなす

男があなたを求めわたしが女を欲するという幸運な偶然がありうるとして、女の道行きはすでに決定されておりあなたの意図は原理的に測られることが不可能である

図られることのなかった偶然というのは、つまりわたしと男が一致する必然でしかもそこでは性欲が性欲としてあり愛は愛でしかなかった地獄なのかもしれない

 

あなたは夜明け前にコーヒー豆を挽く

ただピンで留められただけの壁紙に手を当てて濾過される滴音を聞きつつある

その時

旅程を先読みしながら投函されるかもしれない手紙にふと思い出すのは、ほとんどありえるしかなかった過去に男が出さなかった手紙に対する返事の文句ではないのか

君の手触りには厚みがある

わたしはその悲しみに参加しない

歌によって要求すること

そもそも歌は、美しいことであるべきではない。

ホメロス以来、歌が不躾な要求でしかなかったことを

あなたは知らないはずがないけれど、

命令すること。

陰伏的に、 my favorite things.

ある性を持つことは、とても素晴らしいこと。

苦しみを分け与えて、

拒絶すること。

その拒絶によって確かになにかと繋がること。

私はかしこく反抗していたいのだと、

なにかを直接に変えようとすること。

原初の言葉らしく、そう語ることが

時には歯のない子供のように、

いつかわたしにできたらいい。

ここで子供が泣いていて

あの泣いていたように泣くことが、

それが嘘泣きであれ泣く理由がある限りはただそれはそこで泣くことだから、

泣け。

自分自身を励ますこと。

強く長く励ますことだ。